綾鷹カワウソ妄想譚

一生涯の愛をこめて

頬杖ついて(みっちょんではない)

昔、「会議の最中に腕を組むな!」と言われたことがあります。
「腕を組む」のは「ほおづえをつく」のと同じくらいダメだ!と言われました。
反抗的に見えるのかな?と思いその時は居住まいを正しましたが、その後も(会議中に)メモを取っていたら「メモを取るな!」と言われたりして、僕は「このひとはやばい人なのかもしれない・・・」と思うようになりました。

 

あとでわかった事ですが、ご本人の言わんとすることは「相手が話しているときは相手の目を見ろ」ということのようでした。

確かに人の目を見て話しを聞いている時にメモは取れませんし(つまりメモを取っているということは話しを聞いていないということらしい)、腕組みをしていたらなんだか偉そうというか批判的というか、まあ確かに少なくとも「慎んであなたのお話しを拝聴させていただいておりますわよ」って感じには見えないかもしれません。

 

でもこちとら事務屋ですから議事録も作らなきゃいけないし、出来ることなら効率的にポイントポイントをその場で抑えておきたい。あとでテープ起こしとかすればいいんですけど、それよりはその場で要点をまとめた記録を作っておきたいわけです。効率よく、後作業が楽になるように。


ただ、講義・講演の時はいいらしいんです。腕組みしててもメモ取ってても。
ようするに会議は「参加して意見を交わすもの」であって、片方が「学ぶ」「批評(ジャッジ)する」ものではないということなのかな、と思うに至りました。

 


さらに時が過ぎて、「ああ、この人は若い子たちに傾聴の習慣をつけさせたいんだ」と気が付きました。


障害者の支援者(赤ちゃんに対する支援や、高齢者に対する支援もそうかもしれませんが)というのは「言葉を持たぬ人」に対するプロフェッショナルです。
言葉を持たない人の心情を察し、彼らの意志を言語化するのがお仕事です。

もちろん食事介助だとか排泄介助とかも大切で大変なお仕事ですが、ごはんを食べていただく技術以前に本人がごはんを食べたいのかどうか気づく技術かなければいけません。
そして言葉を持たない人がごはんを食べたいかどうかを判断するのは日々のたゆまないデータ収集と把握、そして支援者個人の経験の積み重ねしかありません。

 

 

少なくともパニックを起こし線路に降りてしまい電車を止めてしまった子の心情はそれなりの知識がなければ推察できません。どうすればよかったのか、どうしようもなかったのか、それを判断するためにはさらに詳細な背景情報を分析しなければなりません。少なくとも善悪とか損得とかいうファクターでは解決しえない問題です。


なんというか論破することが勝ちみたいな風潮も世の中にはありますが、論破なんて屁理屈勝負でしかありませんからいいんですよそんなの別に。勝ち組負け組とか言ってる人と同じレベルなんですから無視していればよろしい。
他人を論破するより他人を理解するほうがよっぽど難しいんです。


そのためには普段から腕を組んで人の話しを聞く癖があってはダメです。
ふんふん、とメモを取ってるのもダメ。
ちゃんと目を見てうんうんとうなずきましょう。専門職ですから。

 


GachifloZ
(ちなみに私は専門職ではないのでついつい「うーん、それは◯◯じゃないのかな!」と言ってしまい、なにも問題を解決できないダメ人間です!)