綾鷹カワウソ妄想譚

一生涯の愛をこめて

ああっ、圧倒的な力が欲しい!

多様性について僕が一番しっくり来る感覚は、なにかで読んだ「みんなが少しずつ我慢する社会」という理解です。

前にも書いた気がしますが「多様性を認めなさい」というのは非常に矛盾した言葉で、「多様性を認める」ということは「多様性を認めないという意見も認めましょう」ということに他ならず、「それなら多様性を認めない人が多くいる今のままで別にいいじゃん」となるからです。

「多様性を認める」というのはたぶん多様性の「存在」を認めるということで、全国民がホモの気持ちを理解しましょうとか、レズビアンの集会にぜひ参加しましょうとか、そういうことじゃないんだろうと思います(そういうふうにアピってくる活動家も多くいる気がしますが)。「私は同性を好きになる感覚は理解出来ないけど、世の中にはそういう性癖の人もいるということは理解しています」というのが「多様性を認める」ということなんじゃないかと思います。「同意」や「理解」ではなく、「存在」のみを互いに承認するというか。

正直な話、観劇帰りとかに新宿2丁目界隈の路上に捨てられている「そっち系の」情報誌とかが目に入ると僕は未だにゾワゾワっとして気持ち悪くなってしまいます。しかしだからといって「ゲイバー撲滅運動に署名してください」と言われても全く署名する気にはなりません。


昨日、高円寺で上演中の「日本人のへそ」というお芝居を観てきました。僕は小劇場演劇が好きで、今回の演出をした鴻上尚史さんの作品が特に好きなのですが、その反面、鴻上さんの政治的感覚には同意できない部分が多くあります。それどころか毎回毎回ところどころでカチンと来たりムカッとしたりするのですが、「それでもこんなにも長い間ずっと好きでいられる」という「不思議」にいつも驚かされます。もちろんこれは鴻上さん作品の比類なき質の高さと演者のパワーによるものなのでしょうが、それでも「多様性社会っていうのはきっとこういう感覚の世界なんじゃないのかなあ」と思ったりするわけです。苦手なところや正直理解できない部分もあるけれど、それでも好きなところは好き、というか。これって非常に人間的で良いと思うんです。


ただまあそんな多様性の存在承認にもやっぱり限度があって、例えば僕は家族が殺されたらその犯人に対して「理解は出来ないけど存在は認めましょう」なんて全く思わないでしょうし、必ずブチ殺すと思うでしょう。そう考えると結局は多様性多様性(ただしヤクザだとかチンピラゴロツキの存在は除く)となり、さらには多様性多様性(ロシア中国北朝鮮といったゴロツキ国家許すまじ)となるわけで、結局物理的にも精神的にも世界の分断はヒトに仕組まれたDNAなのかと絶望したりします。

世界がどこまで優しくなったところで「話の通じない奴ら」はいつだって間違いなく存在します。そしてそいつらの存在を「多様性」として認めるためには、まず自らの存在をそいつらに認めさせるための絶対的武力を持つことが大前提です。全面降伏、全面服従で争いを逃れる方法もあるでしょうが、奴隷として生きることが多様性の承認につながるとは到底思えません。


多様性ってもともと社会的弱者というかマイノリティの存在を認めようという話だったはずなので、それを考えると多様性社会の実現に必要なものが「何人にも侵略されない力を保持すること」というのはどうにもこうにもひどい皮肉にしか思えません。


GachifloZ