多様性を認めない多様性を認めること
自分らしく生きるということが今の流行りだと思っています。
誰に強要されることなく、誰に気遣うこともなく、ありのままの自分でいる。
現代日本はそんな世界を目指しているんだと思います。
昭和生まれにはとても難しいことだと思いますが、平成生まれならなんとか。
令和生まれなら当たり前に。
きっとこれからの時代をしなやかに生きていかれることでしょう。
これからはそういう時代なのです。
自分らしく生きるということは逆に言えば他人の意見に惑わされないということです。「私はこう思うよ(あなたがどう思うかは知らんけど)」と、それぞれが異なる意見を持ち寄り、時には最大公約数的に、時には声のでかい人が物事を決めていく。
そういう感じになるんだと思います。
他人の気持ちに慮って自分を殺す、なんてことは美徳でもなんでもなくなるのです。
僕は前々から「多様性を認めよう」と訴えかけている人が理解出来ないでいます。
多様性はその存在を認められるものであって、個々の多様性そのものを認めてもらうことではないと思うからです。
多様性を認めるということは、多様性を認めないひとを認めるということです。
多様性を認めない人に認めなさいと訴えかける人こそが多様性を認めていないのです。
誰にも認められなくていいんです。
理解されなくていい。
「そういう意見もあるよね」と思うだけでいいんです。
納得する必要はないし、認めなくていいんです。
だから「男は男らしく」という意見があることを認めることが多様性を認めることなのです。「女は女らしくなんてとんでもない、謝罪しろ」など声高に叫ぶ人こそアンチ多様性なハイタテキ存在なのです。
あなたはあなた。
あなたらしくいて下さい。
私はその生き方はしないけど。
あと、関わるんじゃねえよ私の人生に。
そんな感じで仲良く共存しましょう。
そういう世の中になるんです。
たぶん。
GachifloZ