綾鷹カワウソ妄想譚

一生涯の愛をこめて

ミジンコ


フジテレビNEXT氣志團万博2013がやっていました。
僕は当日お仕事で行けなかったのですが、超絶台風豪雨の中、ずぶ濡れになりながら歌い踊り狂う私立恵比寿中学の女の子たちを自宅で能天気にモツ煮込みをたらふく食べながら観ていた僕は「ああ、<持っている人たち>というのは本当に<持って>いるなあ」と思っていました。
正直ももクロさん以外はBABYMETALくらいしか今のところ興味がないのですが、アレを生で観た人は間違いなく一瞬で取り込まれるだろうなあと思いました。それくらい印象的で素晴らしいパフォーマンスでした。

そういえばどれくらい「一目惚れ」というやつをしていないのかなあと考えてしまいます。
初恋は小学校二年生でしたがあれはまごうことなき一目惚れでした。
場所は体育館、季節は春。始業式で僕の右斜め前方4列前に座っていた子を見た瞬間、僕は生まれて初めての恋に落ちたのです。

もちろんその恋は叶わず、それ以降中学高校とこの日記を何の因果かご覧になっている皆様同様ご多分に漏れず暗黒時代に突入し(えっ俺だけ?)、いくつか叶わぬ恋もして参りましたが、思えば本日現在に至るまで女の子に一目惚れしたことはあれ以来一回もありません。

ただ、歌とか絵とか、いわゆるアート、アーティストに関しては一目惚ればっかりです。というより、繰り返し触れていて「好き」になったほうが圧倒的に少ないです。
現実の女の人のことは何度も何度も繰り返し触れあう中で徐々に「好き」になっていくのに、なんだか不思議な感じがします。同じ「好き」なのに。どうやら「好き」にもいろいろあるようですね。僕はこんなあたりまえの事すらよくわかっていないのです。

ああ、そうか、そう考えると小ニの時の一目惚れも、実はその子を異性として好きになったというよりは、美しい芸術作品を見た時のような「好き」だったのかもしれません。
確かに美しい子でしたもん。初恋の幻影ってやつですかね。

絵にしろ音楽にしろ、稀有で遥か高みにある美に対する思いは常に偶発的初期衝撃を伴って発生し、身近な女の人に対する思いは意図的習慣的な繰り返し情動により発生するものなのでしょう。

人は他人を通じてしか自分を知りえず、他人を好きになることでしか自分を好きになれないという話をこの前聞きました。
例えば肌の色にしたって白い人や黒い人や黄色い人がいるから自分が何色か認識するわけです。背が高いとか低いとか、おおらかだとか卑屈だとか、モテるとかモテないとか、ちんちんでかいとか小さいとか、自慢の長所にしても卑屈なまでの短所にしても、結局は他人ありきの比較でしかないわけです。

そう考えると東京砂漠どころか東京無人島で暮らしているような非コミュの僕はもうただただ細胞分裂を繰り返すだけのミジンコでしかないわけです。

でもそんなミジンコ人生でもたまには出会いがあり別れがあり、誰かを好きでいるその時だけ僕は人たりえるのです。
だからもう、ずっと恋をしていたいなあと。
心からそう思います。

ではまたあした。

GachifloZ