綾鷹カワウソ妄想譚

一生涯の愛をこめて

メメント・特モリ



こんにちは。
昨日一昨日とももクロちゃん西武ドーム2デイズに行ってきたGachifloです。
いやー楽しかった!熱かった!!そして長かった!!!
両日とも4時間超え(2日で4時間じゃないですよ!2日で9時間!)しかも両日完全に別のセットリストという、どんだけ底なしのパワーなんだよ!!と叫ばずにはいられないくらいの激しいLIVEでした。
それはもう、若いってすごいなーという言葉さえ遠く霞んで陳腐に見えるほどの激しいLIVEでした。いやあ楽しかった!


大震災が起こった時、多くのタレントさんが被災地訪問とかチャリティLIVEとかをやっている中、(まあそれもやったんだけど)彼女たちがやったのはZEPP東京でのガッツリ2時間LIVE一日3回公演という、今思い返してもとんでもない少女虐待鬼畜LIVEでした。

「がんばって!」「くじけないで!」と歌う人はたくさんいましたが、自らを限界を越えた場所、それも常軌を逸した火薬庫に身をおいて、言葉よりも何よりもまずは自分たちが逆境に立ち向かうこと、そしてそれを乗り越えることで人々に勇気や希望、そして何よりも笑顔を届けたいと行動した人たちを僕は他に知りません。


そんな彼女たちも今は多くの人が知るところとなり、ドームいっぱいに輝くサイリウムを観ながら僕はファミリー席でしみじみして「おっきくなりやがって・・・」とルパンのようにしんみりしておりました。

ドームの帰り道、お巡りさんがやたらたくさんいて、「なんだろう?」と思ったら交通事故でした。
僕がガールズに「あー痴漢でオレを捕まえに来たのかと思ったよー」とおどけると(なんちゅうおどけかただ)、ガールズから冷静に「パパちゃんくらいのちかんじゃ捕まんないよ。」と言われ、「お、おまえはいったい何を知っているのだあっ?!」とLIVEでかいたアツい汗が背筋を走って少しひんやりとしたのでした。
ああ怖い怖い。


デスノートというマンガがあって、執事のお爺さんが死ぬ間際にキーボードに仕込んだボタンをピッと押すと過去のあらゆるデータが全部消えるというシーンがあったのですが、自宅PCに誰にも見せられないあんな動画や秘蔵のこんな写真がゴマンと入っている身の上としては「ぜ、ぜひオレのiMacにインストールしたい!」と切望したものです。

まあ似たようなプログラムがないこともないのですが、今はただ入れっぱなしになっています。ガールズも1号はこの春6年生になったのでそろそろヤバいかなーと思ってはいるのですが、まあ女の子ですから「フケツっ!」と言われて口を聞いてくれなくなるくらいで済むでしょう。(そうか?)


すっかりおじいちゃんになって最近はやっていませんが、昔はエロチャットというのをさんざんやっていました。
まあ仮に3時間やったとして2時間57分は待機時間で、3分はネカマ(懐かしいフレーズだ)を一生懸命口説いていたわけですが、あの頃のログがもしまだネット空間に漂っていたら本当にそれこそガールズには見せられんなあと思う次第です。はい。


まあネットのログはともかく、日常的な会話というのはよほどのマニアでも無い限りそれがそのまま記録として残ることはありません。でもそういう流れて消えていく日常的な会話こそが結局は人と人とのつながりというやつなんじゃないかなあと思っています。

たとえばおはようとか、おやすみとか、楽しかったよ!とか、今日もきれいだよとか、お誕生日おめでとうとか。うっせえクソムシ!(深夜アニメふうに)とか、モノノフ見つけたらペンラへし折ったる!(オズフェス参加者)とか、フフフ、どこに欲しいのか言ってごらん!でもなんでもいいんですけど、そういう自分と自分以外の誰かのあいだに伝わって消えていく、ただそれだけの会話こそが人のつながりそのものだと最近は思ったりしているのです。


もちろん言葉にしなくても伝わることはたくさんありますし、天国の優しいおかあさんに話しかける想いに言葉なんていらないのでしょうけれど、少なくとも現実世界の誰かとつながる時にはやっぱり言葉って必要だよな、重要だよなと思うのです。

カミさんはもともと無口な上にもともと口下手で、さらに身体が悪くなってからは思うように口を開けられず、上手に喋れません。

(子供の手前)どんなに明るくオハヨウ!と言っても「はあ・・」としか返ってきません。「いってらっしゃい」もないし、「おかえり」もない。もちろん「ごはんにする?お風呂にする?それとも・・・ウッフーンw」という他所の家庭では毎夜当たり前のように行われているはずの日常会話など我が家では皆無です。

しゃべれない人間に語りかけても苦痛なだけでしょうから僕は常日頃からテレパシーで「今夜はカレー!カレーっ!」と語りかけるのですが、サバの味噌煮が出てきたりホワイトアスパラのマヨネーズ和えが出てきたりとあんまりうまくいきません。
冷戦状態を通り越して絶対零度の域に達した夫婦関係ですが、それでも会話が出来ないというのは悲しいことで、誤解ばかりです。

会話と言えば「さわんな!」とか「バッカじゃないの?」としか言われませんし(会話なのか?)、たまに用事があってメールしても全盛期の神の子ビスマルクですらここまで完璧には出来まいと唸るほどの秀逸なスルー。
そのくせ「牛乳買ってこい」とか「さんすう12マス買ってこい」とかのメールはキッチリ送られてくるんだから、やはりテレパシーにも限界があるのかもしれません。


こうやってここに書いていることだって削除ボタンひとつで消えてしまうわけで多少の虚しさも感じますが、日常会話だって手のひらの淡い雪のように消えていくんだと思えばきっとそんなに悲しむことでもないのでしょう。

この日記でしか僕を知らない人にとっては、僕がこの日記を閉鎖した瞬間その人の中で僕は消滅し、二度と会うことのかなわない記憶の中のヒトモドキとなるわけですが、それすらもまた悲しむことではないのかもしれません。


大切なのは今この瞬間で、つないだ手で、ぬくもりで、たとえ刹那であってもそれは永遠に違いないとすら思うわけです。だって大きさが無限大であるように、小ささも無限であるわけで、一瞬と永遠は結局同じなのです。ずっとずっと続けた日記も、数行で終わってしまった日記も、それは同じなのです。

でも、でもそれでもなお、続けていられるものならどんなくだらない日記でも、続けられるものなら続けて行きたいと思います。もし誰かと手をつないでいられるものならば、ずっとつないでいたいと思います。

そしてできればいつも笑顔で。


GachifloZ
oooxxx

メメント・モリ(羅: memento mori)は、ラテン語で「自分が(いつか)必ず死ぬことを忘れるな」という意味の警句。「死を記憶せよ」などと訳される。芸術作品のモチーフとして広く使われ、「自分が死すべきものである」ということを人々に思い起こさせるために使われ、日本語直訳では「死を思え」、意訳では「死生観」と言える。(wiki)