綾鷹カワウソ妄想譚

一生涯の愛をこめて

ワタシがカレーに入れたモノ

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僕の務めている職場は年中無休なので必然的に僕のお休みも不定休だ。土曜も日曜も祭日すらもないので、どんどん曜日の感覚が狂ってくる。とはいえ実は社会に出て以来お役所のような「土日休み」という職に就いたことがないのでいい加減慣れっこなのだけれど、それでもしょっちゅう「あれ今日何曜日だっけ」という事が起こる。社会人としてそれも困るので、うちは海軍にならって金曜日をカレーと定めている。「今日はカレーから2日経過したのでどうやら日曜日だ!」という具合である。言うならば西暦グレゴリオ暦もびっくりのカレー暦だ。

そんな大切なカレー曜日の先週金曜日、ちょろっとルーの種類を変えたらこうるさいガールズ共が揃って辛い辛いとぬかしやがる。「カレーは辛いからカレーなんだよ」と嘘八百を並べても「それって『つらいのはキミだけじゃないというセリフをよく聞くけれど、他人がつらいこととワタシがつらいことは関係無い』ってやつだよね」と教えたばかりの妄言を駆使して口答えしやがった。

悔しいので・・・じゃなかった、優しいのでオレは辛口カレーを甘くしてやろうとリンゴにハチミツをとろーり溶かしてやろうと思ったのだがあいにくリンゴもハチミツもない。どうしようと途方に暮れていたら目の前に置かれたバナナに気がついた。これだ。同じフルーティな甘さだから大丈夫だろう、少なくともケーキシロップ入れるよりマシだろうとバナナをすりおろしてカレーに入れてみた。

 


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クソ不味いので決して真似をしないように。
とほほ。
またしても家庭内株価指数は急下降だ。ブラックフライデーだ。来週は素直にイチゴジャムでも入れてみよう。

GachifloZZ

 

カリフォルニア物語


Green Day - Basket Case [Official Music Video]
 幼少のみぎりから卒業式と冠される場で泣いたことがない。単純に心が壊れているからだと○十年思い込んできたが、どうやら違うらしいことが最近わかってきた。

 今日も今日とて仕事中にサボってこれを描いているわけだが、午前中がんばってお仕事をした自分へのご褒美として給湯室のお菓子をつまみ食いしたらこれがもう不味いのなんの。フィナンシェだったんだけど、もうこの世のものとは思えないほどパッサパサ、いやバサバサで思わず吐き出してしまった。おえおえおー(T_T)。


 これもそれも昨日寝っ転がりながら観た聖飢魔II特番「地球デビュー30周年記念・期間限定再集結・大黒ミサFINAL」のせいだ。いやベビメタちゃん久しぶりの新MV「KARATE」の呪いかもしれない。いずれにしても悪魔憑きキツネ憑きの類には違いないものの、仕事のご褒美がクソ不味いバッサバサのフィナンシェというオレの人生はいったいなんだろう?本当に寂寥とした砂の味がした。

 

はてさてそんなことはともかく、先日とても前驚いたことがある。
音楽というのはとても不思議なもので、十年ぶりだろうが二十年ぶりだろうがとにかく久しぶりにその曲を聴くとその時の情景が鮮やかに蘇ってくる・・・と俺はずっと信じてきたのだが、どうやらそれも人によるらしい。
この前夕食後にガールズたちと「冷凍庫内に残されたカミさん(全国巡業中)のジャイアントコーン争奪イントロドンをやっていた時、「ももクリ2012のOPで流れた洋楽」とか「ももクロ夏のバカ騒ぎ2013のEDで流れた洋楽」とか、子供が印象深く覚えているであろう曲をセレクトしたところ全くわからない上に、解答を出してもポカーンとしてやがる。「ほら、入場が1時間押しになったSSA覚えてるだろ?!このメロディ聞いたらあの暑かった西武ドーム思い出すだろ!?」と言ってもぜーんぜんわからないのだ。えっオレだけなの?!

 

いろいろ調べいろんな人に話を聞いたところ、どうやらこれは人によるらしい。
人によっては記憶を呼び覚ますものが音楽だったり、助手席から見た道路標識だったり、手紙についた香りだったり、隆起した二の腕の触感であったり、愛情込めて握ったおにぎりの塩味であったりするらしいのだ。かくいうオレだって「むむッ!この味は1993年三ツ沢球技場で食べたじゃがべえの味!あの時の大観衆大声援、果ては悪魔の左足、エドゥーの40mフリーキックの味ッ!」と微妙に間違ってるセリフを海原雄山に言われても「ああ、そうです・・・かね」としか返しようがない。そしてミジンコほどの感性も無いゲスの極みジジイと思われてしまうのだ。ああ悔しい。

 

卒業式でぽろぽろ泣く人間としらーッとする人間がいるが、実はそれも似たような構造であるのかもしれない。感動を呼び覚ますファクターが送辞の人もいれば帰り道のアスファルトの裂け目だという人もいれば二度と着ることのない制服を脱いだ時に感じた綿の感触だという人もいるのだ。

 

人はみな違う。卒業式で泣かない人が皆冷たい人なわけではなく、感性の鈍い人なわけでもなく、もちろん障害やらなんやらでもなく、それは単なる「違い」だ。「私ってばきっとなんちゃら障害なのだわ」とか「きっと心が壊れているのだわ」「人生って一体何なのよ」と私のように可愛く思い悩んでいる全国一千万の美人妻のみなさんの肩を優しく抱きながら耳元で「大丈夫だよ」お甘いミンティア味の吐息を吹きかけながらささやいてあげたい。そしてもしも男で同じように悩んでいる人がいたらやはり心配するなと声をかけてやろう。「キミの場合は単なる無神経もしくはノータリンだ」と。

 

と、そんなこんなを考えつつおうちに帰り、夕食時に「実は今日は一日かけて大学受験と高校受験の違いについて調べておったのだが・・・」と嘘八百を並べると食卓にいた全員から一斉に「仕事しろよ!」と怒られてしまった。ううぬ、カミさんはともかく年端もいかぬ小中学生に「仕事しろよ!」と怒られ涙にむせぶオレ・・・今日も空が灰色だ。人生とはいったいなんだ?

 

GachifloZZ
今週のお題「卒業」

僕に踏まれた町と僕が踏まれた町

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「エッチな写メ下さい(はあと)」だの「<いいね>の代わりにおっぱいもませてください(切実)」だのと散々「心にもないことを(←ここ重要)」書き連ねていたはてなダイアリーのブログ「歌声の消えた海」をとうとう愛する我が娘ガールズ1号に見つかってしまった。思春期なのに誠にもって申し訳ないことしきりだ。

 

 もっとも最近はこちとらも加齢がゆえにすっかり性欲も枯れ果て、もっぱらアイドルのことやらロックの話、映画の話やら旅の話といった毒にも薬にもならない与太話ばかり書いていたためかろうじて面目は保てている。
しかしこのままずんずんと過去ログまで読み進められた日には権威失墜どころではない。不登校家庭内暴力、果ては野球賭博に大麻所持は当たり前のユニークな家庭になってしまう。てなわけで今後は場所を移してこちらに日々の雑感を記しておくことにした。ちなみに表題は中島らもさんの著作から引用です。

  さて、では。

非常に短いサイクルでの転勤が多かったのでいろんな街で仕事をした。
アッパーな街からダウナーな街までいろんなところでお仕事をした。小学生の頃から歌舞伎町の裏路地をチャリンコでうろうろしていたせいか適応能力が高く、どこの街でも抵抗なく生きては来られた。

しかしこれまた根っからのへそ曲がりゆえかいわゆる世間様で言うところの「住みたい街」に挙げられるような街は正直ちっとも「住みたい街」にならなかった。特に青山・赤坂・白金・高輪あたりは本当にいい思い出がなくて、アラブの大富豪が路上に倒れているとしても住みたくない(きれいなお姉さんがおっぱいを揉ませてくれるなら話は別だ)。

かといって葛飾・亀有・新小岩あたりも好きではない(だって怖いんだもん)。錦糸町は若かりし頃に上司に無理矢理連れて行かれたロシアンパブでの苦い思い出しかないし、昔はタチンボがずらっと立ち並び「人生とはいったいなんだろう」と幼い僕にたくさんのことを教えてくれたた新大久保の街はもはや日本人のいない異国の街になってしまった。


そんな様々な街でアングラな日々を過ごしてきた僕の個人的なフェイバリットタウンといえばやはり高円寺・中野・下北沢あたりだ。もうこの界隈は駅のホームを降りた瞬間に安心する。ただよう空気が違う。すれ違う人々のファッションが違う。聞こえてくる会話が違う。本当に安心してしまう。

この前も下北沢の「般°若」にカレーを食べに行ったのだけれど、店員さん同士で「この間の客演の☓☓がさあ~」「古田新太がこの前さ(笑)、」などと表参道PABLOの店員さんは決して口にすまいフレンドリーな会話をしていて、僕は美味しいカレーを食べながら本当に安心してしまった。高円寺のキッチン南海でカツカレーをむしゃむしゃ食べている時にも、西荻窪でパパパパパインラーメンをつるつる食べている時も、底知れぬホーム感があった。これはたとえ同じ大衆食堂に入ったとしても青山六本木では絶対味わえないアングラ感だ。

 

まあこんなのどちらの街に対しても単なる偏見なんだけど、自分では中野ブロードウエイの雑多な安心感も表参道AppleStoreあたりの敷居の高さもそれはそれでとても良い感じに思う。安心できる場所があって、一方でちょっとドキドキしてしまうような素敵な街があるというのはとてもバランスが取れていてとてもいいことなんじゃなかろうか。どちらも必要なんだきっと。

自由が丘や代官山あたりをぶらぶら歩いていると、「こんなところに住みたくはないけれどまた来て美味しいスィーツでも食べよう」とは思う。高円寺は青山になれないけれど、青山だって高円寺にはなれない。

 

好きな人とデートするのは表参道がいいし、一緒に暮らすなら高円寺がいい。デートで映画を観るなら「リリーのすべて」がいいけれど、一人で観るなら「血まみれスケバンチェーンソー」がいい。街も人もそれぞれ違ってそれでいいのだ。そしてたぶんきっとそこがいいんじゃない?

  GachifloZZ(ブログ療養中)

今週のお題「好きな街」

秘密のたからもの


台所の隅にちょこんと置いたPCデスク(のみ)が私のスペース。
そこにiMac。かたわらに小さな水草水槽とかわいいミニサボテンが3つ。あと動かなくなったミニ加湿器。動かないけどとてもきれいなイルミネーション機能が生きてるのでとてもシャレオツな感じ。

机の脇にアコギとエレキベース。壁にはももクロさんのサイン入りグッズやらサッカー日本代表ユニフォームやらいろんなものがぶら下げてある。あと机の下にダンボールひとつぶんくらいのたからもの入れ。これが全財産。いつでも引越しOK。

あ、文庫本とCDもあるか。あとは押入れにやはりダンボールひとつくらいの服と吊るしてある服が5着くらい。あとはなーんもない。


・・・もちろんここには書けないアダルティなブルーレイやらDVDやらVHSテープやらBetamaxテープやらHi8テープやら音声のみのエロカセットテープやら昭和の言葉で言うところのビニ本やらの在り処は除く、だ。ちなみにそれらをひとり没頭して楽しむために買ったSONYの3Dヘッドマウントディスプレイの存在も秘密だ。絶対にバレてはならない。


本当になんにもないなあ。
昔描いた同人誌は完売してしまって原稿も残していない。高校生の時に描いた木炭デッサン画くらい残しておけばよかったかな。あれはうまく描けていた。

いやいや、今手元にないからうまく描けていたなんて言えるのだろう。
みんなそうだ。今、手元にないものほど美しい。人生そんなものよねえ。

GachifloZ

今週のお題「わたしの部屋」

いちばん好きな映画は「ストレンジ・デイズ」です

リハビリは続く。

西友で買ったミントの葉っぱのあまりをベランダの空いている鉢植えに入れた。西友のだから半分しなびたような奴だったけれど、結構たくさん生えてきた。お料理に使えそう。ふふふん、こうなるとミントが映える白い食器も揃えたくなっちゃうね。春のパン祭りでも応募しようかしら。



昨日ひさしぶりに映画館で映画を観た。

あろうことか今年初映画かもしれない。
なんてったって「10年に1度の当たり年」であった2015年だというのにマッドマックスも観てなければジュラシック・ワールドミッション:インポッシブルも007も観ていない。こういったいわゆるハリウッド大作を1本観たら邦画の誰も観ないようなの1本観て、こまっしゃくれたフランス旅情映画みたいな奴を1本観るというペースだったのに、これじゃ単なる映画好きを自称するオバちゃんだ。せめて極道大戦争と脳漿炸裂ガールと恋人たちは観ておきたかった。洋画ならフォックスキャッチャーとバードマン、クリードくらいは観ておきたかった。


去年劇場で観た映画はなんと片手ぶんほど。
小さな恋のメロディの再映に幕が上がると予告犯とアメリカンスナイパー、ターミネータースター・ウォーズ、たったこれだけだ。インド・オブ・ザ・デッドを観ないなんてゾンビファン失格だ。

これも日曜日に家でグダグダしているからだ。劇場で観る時間は絶対あったはずだ、以前なら通称「アラマッ、ヤダッ、ンマー!おばちゃん」や「ポリポリポリポリプーンなポップコーン野郎」を避けるため早朝からロードショーに出掛けていたのに、去年は昼までグダグダしてたからだ。これはいかん。割れた腹筋もふにゃふにゃになるはずだ。これではイザという時、実に恥ずかしい。堂々と電気を点けたまま行為に及べるよう努力せねば。


思えば本も全然読まなかった。絵も描いてないし、ギターもベースも幾度埃をかぶらせてしまったことか。もう本当、これではバカになるのもうなずけるというものだ。というわけでこれからは平日のオフは遊び、土日のオフには必ず何かを観るか読むか演ることにする。これは脅迫だ。



ちなみに昨日観たのは「オデッセイ」。
原題は「MARTIAN(火星人)」だ。火星人とはいえヘルメットを被ったタコのようなクリーチャーの話ではない。火星へ惑星調査に出た御一行様のうち一人がうっかり火星に取り残されてしまい、地球では大々的にそいつのお葬式なんぞやってる間に本人は火星でじゃがいもを作り水を作り70年代のダンスミュージックに悪態をつきながらのほほんと暮らしていたという奇想天外なお話だ(本気にするなよ)。

しかしこの主人公、とにかく前向きで偉い。
「あなたってアホなくらい前向きね(はあと)」と女の子にことごとくバカにされるオレが「前向きなやっちゃな!」と思うんだからそうとうなもんだ。

次に火星に探査艇が来るのが4年後だというのに食料は31日分しかなく、火星であるからして水もなく、酸素だってほとんど無い。普通この状況なら仏の道にでも入りそうなものだけれど、この主人公は「火星のクソヤロー、学者をナメてんじゃねーぞ!」とばかりに排泄物と火星の砂で土を作り、水素と酸素から水を作り、植物を育てて酸素と食料を作りとやりたい放題。まあ真偽のほどはともかく、やっぱり知識は宝だ。


世間では年金が減るだのなんだの言ってるし、マスゴミは「老後に必要な費用はン千万」とかふれまわって不安を煽る。だがしかーし!少なくとも水と酸素くらいはあるだろう。そしたら充分だ。あとは知恵と工夫と好きな人への思いを拾ったチラシの裏かなんかにしたためた文集でもあればどーにかなる。家にある文庫本1000冊くらいとラジオがあれば当分はなんとかなるだろう。ああなんか18歳くらいの時を思い出すな。あの頃もそんな感じで生きていた。


今日帰ったらミントの隣にじゃがいもを植えてみよう。
あしたのために。

GachifloZ


追記
あー昨年「BiSキャノンボール2014」も観てた。まだ忘れてるのあるかも。
劇場で観る機会は少なかったけどHuluやWOWOWでたくさん映画観たんだよな、去年は。まあでも観たことを覚えているのが大切なんじゃないからな。大切なのは情緒の安寧だ。そして去年はたくさんいろんな所に行けて楽しかった。だからまあいいいや。ありがとう。

行方不明のタニシとサイリウムの海

これはリハビリである。
日記が書けなくなってひさしいけれど、これはリハビリであって練習であるのだから支離滅裂だろうと話の筋があちこち飛んでもオチがなくともそれはオレのせいではない。

タニシが行方不明だ。
決してケテルビー的な意味(要するに女性の暗語)ではなくリアルタニシが行方不明だ。先日お誕生日プレゼントフォーミーとして買ったミニ水草水槽に入れたコケとりマシーン1号(スーパーストロングマシーンみたいだ。懐かしいな)がいなくなってしまったのだ。水槽はほぼ全面フタがしてあるから外に飛び出したとも考えにくい。どこか底層でひっくり返っていやしないかと昨日から探しているが見当たらない。同居しているヤマトヌマエビに食われたとも思えんし。どこへ消えたのだろう。



地獄の行進ならぬ地獄の直立不動8時間という狂い咲きサンダーロードもビックリなももクロさんカウントダウンLIVE以来とんとLIVEはご無沙汰だったけれど、先週の特撮×筋少LIVE、昨日の特撮ワンマンライブと2月に入って快調な鬱憤ばらしをしている。ちなみに今の文章は「マッドマックス地獄のデスロードもビックリな」と書きたかったんだが、マッドマックスというタイトルが思い出せなかったのだ。がっくし。

ちなみになんで地獄の行進かというと、ももクロさんの新譜「アマランサス」収録の「サボテンとリボン」を聴いていたらいつの間にか筋少の「サボテンとバントライン」を聴いていて(だって似てるんだもん)そこからデスマーチという言葉が頭にこびりついていたからだ。なんのこっちゃ。


昨日のLIVEは渋谷のパルコ裏にあった地下の古い小さな映画館を改装したライブハウスで行われたのだけれど、これがとてもよかった。なにしろ映画館だから床が段々。ただ、一般的なライブハウスに比べればかなりの急勾配と言ってもいいからモッシュやダイブすると確実に雪崩で死亡者続出請け合い。ホルモンやら10FEETやらベビメタちゃんはここではやらないように。怖いからっ!

しかしかつて「パンクチーム」と呼称していた特撮のLIVEがサイリウムの海になるとは思わなかった。同日名古屋で開催されたももクロさんのドームツアーと時を同じくしてサイリウムの海に包まれた光景はまるでエディのピアノに贈られたももクロさんフリークからの愛のプレゼントのようで感慨深い。エディが奏でるももクロさんの新譜「WE AE BORN」をエディの生演奏で聴ける日は来るのだろうか。


それにしてもタニシが心配だ。
きっと人に言えない悩みを抱えていたのだろう。タニシだけに水臭いと言えばそれまでだが、たとえ打ち明けてくれたとしても何も出来ぬオレにそれを聞く権利などあろうはずがない。しかしだがしかし、それでもいつか二人でエディのピアノを一緒に聴こう。だからもう少し生きてみないか。

GachifloZ

ジルバを踊ればジルバを

また今日もフェィスブックに前職の同僚からお友達申請が来ていたのでガン無視してやりました。フェィスブックの「友達がいません」という画面が好きでやっているようなものだから、絶対承認なんてしてやらねんだ。いくら歳を重ねてももうすぐポックリ逝くとしてもお友達はいらない。好きな子だけいればいいとン十年生きてきてなんにも困りはしなかったから、きっとこれからもこのままだろう。

「好きと言ってくれる人」は自分の力だけではどうしようもない部分があるけれど、「好きな女の人」ならば自分の思い込みだけでどうにでもなる。お友達も自分から一歩踏み出さねばダメだけれど、好きな人はそんなことしなくても作れる。そしてそれだけできっと人は生きていけるのだ(実証済み)。

家に「ねんきん定期便」が来て将来の受け取り予想額が書いてあった。うーんこの金額で暮らすのかと思いつつ、貯蓄を始めようとは思わなかった。むしろこのミクロンな金額で生きられるように生活スタイルを変えていこうと考えた。どっちが建設的なんだかわからないけれど、人生なんとかなるもんだ。金持ちなら金持ちなりの生活を。貧乏なら貧乏なりの生活を。オレなら出来る。


年寄りというと高血圧でとにかくすぐ怒ってすぐ泣いて、というイメージがある。
あと持病の癪がっ!とか新聞を離して読むとか。まあかくいう私もおじいちゃんの中ではまだまだナウでヤングでキッチュな世代であるからして本当のところはよくわからない。個人差もあるだろうし。

しかしいわゆる気力が続かないのは確かだ。
「なんで革命は若い人が起こすのか」というのが常々不思議だったのだけれど、なんか最近本当に納得してしまう、それはおじいちゃんになったからだ。
おじいちゃんというのはとにかく気力が続かない。気力というのはやる気だけではなく、怒りも悲しみも喜びも続かないのだ。どーでもよくなるとまでは言わないが、かなりのレベルで沈静化してしまう。これはもうきっとシステムなのだ。そういうシステム。怒りも苦しみもあの世に持って行かないように組み込まれたシステムに違いない。

このシステム、決して悪いものじゃないとは思うが、できれば年齢にかかわらず必要に応じて作動するシステムであればよかったのに。若かりし頃にこのシステムを自由に操れたならばオレはもっともっとモテモテ・・・じゃなくてもうちょっとマシな人生を送れたようにも思う。「まあいっか」と流せたら人生が変わっていた瞬間がいくたびあっただろう。


ああ今日もオチがない。
まあいっか。

GachifloZ